りんりん

 蝉の声がやみ、風鈴の音が高くなり、籠を拾い上げて外へ出た。夕立が来る前に洗濯物を取り込んでしまいたかった。軒先のつっかけが一つ足りなかったが、つまりはきっとすぐ戻ってくるということだ。
 
 それで、一番古い記憶について思い出してみる。
 夏だったから、今日の昼みたいにきっとうだるような暑さだったはずだ。それなりに山の上なので蝉の声もすさまじかっただろう。歩けるようになったことが嬉しく、長い坂道だというのに歩くと主張して、しかも目的地に着くころには疲れて駄々をこねて大変だったと母は笑う。
 どれもこれもさっぱり記憶にない。
 私たち家族三人の目的地の前にしゃがみ込んで俯いている少女が、弾かれたように顔を上げた。私をまっすぐ貫いた視線の、その黄金こがね色の瞳の、陽炎のような揺らぎを、やたら鮮やかに思い出せる。だが、きっと見られたのは数瞬も満たなかったはずで、立ち上がった彼女は、すぐ目を細めてきれいに笑った。
 交わした言葉の内容はこれまたさっぱりなのに、その笑顔と、すれ違いざまにお線香のにおいがしたことはなぜかしっかり覚えている。
 
 籠いっぱいになった洗濯物の一番上のシャツを顎で押さえて縁側に駆け込む。鼻先をうずめた袖口からは燃え殻のにおいがうっすら香った。提灯の色とりどりの光が、降り出した雨で暗くなった広縁の天井をくるくると走っている。
 
 
 *
 
 
 その年は夏風邪がひどく流行っていて、町で唯一の医院を構える両親はすっかり手を離せなくなってしまった。熱を出した妹弟たちを寝かせてしまうと、手伝えることもそう多くなく、荷物を取りに戻った父に墓掃除の道具の所在を尋ねた。迎え盆はなんとか済ませたけれど、墓参りもそろって行けていないまま明日は盆が明けてしまう。一人で大丈夫か、と疲れた声が念を押したけれど、大丈夫と答えて家を出た。
 町を見下ろせる高台に祖父の墓はある。さほど大きい墓ではないけれど、墓地で一番見晴らしのいい場所に建っているという。家系図は祖父までしか遡れず、祖母の墓は別の町にあるから、墓には祖父の名しか刻まれていない。
 道具を放り込んだ鉄のバケツをカラカラ言わせながら、坂道を上っていく。蝉がうるさくて耳鳴りがするくらいだし、湿った重い空気は息苦しくて仕様がなく、墓が見えるころにはすっかり息が切れてしまっていた。
「君」
 リン、と。
 祖父が作ったものだという、軒先の大きい金属の風鈴が鳴ったみたいだと思った。蝉が鳴き止んで、明るい墓地には盆の中日だからか誰もいない。私と彼女以外。
 もう先に掃除してくれていたのか、片手にスポンジを握って、足元にはバケツがあるのも見える。たしかにお盆でなく来ても、祖父の墓がそこまで汚れていたことは一度もない。ふと名前を数度呼ばれて、物思いから引き戻される。
「どうして? どうして一人で来たの? お父さんとお母さんは?」
「おとうさんとおかあさんは……」
 彼女の声が硬く尋ねる。笑みを絶やさないはずの顔が険しくなっていく。どうして? 、……どうしてだろう? 理由を言えばいいだけなのに言葉の処理ができないで、舌がもつれる。町で、風邪が流行っていて、お父さんとお母さんは忙しくって、それでわたし――
「あ、れぇ?」
 ぐにゃりと音と視界がゆがんで、傾く。鉄のバケツが石畳に衝突する音が遠くに聞こえた。
 

「なんでこんな熱なのに掃除なんか行ったの」
 熱が下がった二番目の弟が小言をこぼしながらリンゴを口に突っ込んできて、私は返答することができないでもごもごと咀嚼する。風邪を姉弟のなかで一番拗らせ、ようやく固形のものが食べられるようになってきたが未だ微熱は下がりきっていない。「熱でおかしくなってたんじゃない?」と辛辣なことを言う三番目の妹がするすると包丁でリンゴを剥いていく手元を、切れ味がいいなあとぼんやり眺める。この包丁も祖父が作ったものだ。
 
 祖父はこの町の刀匠として屋敷を構えていた。今は数が減ったが、昔は武装した神社と刀匠屋敷を中心とした町がもっとたくさんあったのだという。
 そして一振いちごという名前の彼女は、真剣少女だ。刀匠が鍛えた刀剣に霊を下ろした、永遠に少女のかたちをした武器。
 軒先の風鈴も、妹の握る包丁も、父のカバンの中の小刀メスも――そして彼女も、すべて祖父の鍛えたものだ。
 
 それで、一振いちごは私の初恋のひとなのであった。つまり私は盆の日に墓前に来るはずの彼女に会いに行ったのである。もちろんそんなことは妹弟に明かせない。
「いやそれはいちごちゃんに会いに行ったんでしょ」
 一番上の妹の発言に思わずむせる。
「えぇ、なんでー?」
「なんでって」
 妹は揺れる天秤から上げた半目を、せき込む私と、自分を見つめる妹弟たちの顔とで往復させた。小さいころから親の仕事に興味津々だった彼女は、今は両親とおなじ道に進むべく薬師修行をしている。この医院もきっと彼女が継ぐのだろう。
「なんでって姉さんは刀匠になるって決まったんだから。真剣少女に話、聞いときたいでしょ」
 そして祖父とおなじ道を選ぶこととなった、私は、刀匠になる。
 
 
 彼女は、というのも他人行儀なので、いつも通りに。
 いちごちゃんはあの日高熱でぶっ倒れた私を家まで運んでくれたらしい。墓掃除の後でそれなりに濡れていた地面の汚れは私の白いワンピースに一切ついていなかった。真剣少女ってすごい。
 今はなぜか縁側で二人、いちごちゃんが快気祝いに持ってきたスイカを並んで食べている。そもそも家を知っていること自体初めて知ったし、お盆以外に会うのも初めてだ。
 なんとなく、お盆以外は会えない気がしていた。
「……刀匠になるんだ?」
「えっ、なんで、わかるの?」
 ぽかんと開けてしまった私の口元を、いちごちゃんはにこにこ笑いながら指の背で拭う。刃物であるはずなのに、指は温かくて柔らかかった。
「わかるよ~。私たち、刀匠の近くだとちょっと元気が出るもん」
 そうなんだ。真剣少女の知らないこと、知らねばならないこと、まだまだたくさんある。黙り込んだ私をよそに、それにね、と彼女は続ける。「君の気配はそっくりだから」
「おじいちゃんに?」
「うん。だから君と最初に会ったときね、帰ってきたかと思ったの。そんなわけはないのにね~」
 いちごちゃんの声は明るいまんまで、やっぱり私は何も言えなくなって、とりあえずスイカをしゃりしゃりやってみる。
「でもがっかりしたわけではないんだよ。君は覚えていないかもしれないけれど、君に会えた時、本当に本当に嬉しかったんだから」
 覚えている。
 なにしろ私の物心というものは、いちごちゃんと出会ったときに焼き付いたので。
 
 
 *
 

「えっ」
「お? お? おきた~? おはよおはよ~!」
「えっ……えっ?」
 勢いよく起き上がると掛かっていたタオルケットが落ちる。洗濯物を取り込んで、暗くなったから畳の上でそのまま眠ってしまったらしい。幼児か。
 きちんと畳まれた洗濯物が重ねられている横でいちごちゃんはからから笑った。窓の外はすっかり暗く、なんとなく夕立のあとのひんやりした空気を感じる。
「おはようじゃないかも……」
「君が起きたらご飯食べて送り火しよっか~ってみんなと話してて。どお? はいりそ?」
「うん……」
「どうしたどうした~? さっ顔洗っておいで!」
 ぼうっと顔を眺めていた私の背をぽんぽんとたたき、立ち上がるのまで見届けると、人の気配のある広間のほうににこやかに去っていった。付き合いが長いというかなにぶん小さい頃を知られているせいで、ほとんど妹や子どものように見られている節がある。自分には上のきょうだいがいなかったので、憧れていなかったかというとそういうわけではないのだが、いちごちゃんにやられるとほんのちょっとしんどい。
 私はいちごちゃんが好きなので。
 盆提灯のまわるなか、精霊棚の上段に飾られている祖父の笑顔を見つめる。祖父が一番最初に作刀したのが一振いちごという真剣少女であり。そして、私の生まれた年に亡くなった祖父の最後の作品は、私の名前ということになる。
 帰ってきているのだろうか? おりんを鳴らして、手を合わせる。今から帰るところなら、この不甲斐ない孫に少しだけ勇気をください、と念じて、いちごちゃんの後を追った。
 風鈴が澄んだ音を響かせ、軒先で小さく揺れた。