返り忠

 薬研さんの逸話に対する捏造。元主と刀。
◇解釈地雷のある方ご注意。

2023-04-21 22:51:31


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 彼はかの短刀を愛していた。
 その短刀を一目見て自分の恋人はここにいたのだという確信を得た。その地鉄の肌の滑らかな光沢。刃紋のまっすぐして歪みのない輪郭。まるで元服前の少年の肢体を思わせるそれに彼はまさしく恋に落ちたのだ。
 彼はその短刀を愛した。立派な拵えで彩らせ、肌刀として胸にいだくのさえ躊躇いを覚えるほどであった。それだけではなくだれの目にも触れさせることさえひどく厭い、自室の一番重要なものを入れた匣にしまい、時に愛でるために取りだして飽かず眺めては、自らの手で手入れを施してやった。


 時は流れて、彼は時代に翻弄され遂には自らで果てねばならぬ、という瞬間がやってきた。彼はついに匣からその短刀を取り出して家臣の前でその切先を腹につ、と当てた。
 短刀は自らの腹をあやまたず貫いてくれるだろう。かれの切れ味のよいのは自分が、自分だけがよくよく知っている。
 そう、それで彼は手を滑らせるだけでよかった。腹をかれにひとなでしてもらえばそれだけでいいはずだった。はたして彼はそうした。
だが、その冷たい感触は、夢に思い、ある夜には欲さえ放ったその肌はまったく腹に触れなかった。柄は確かと握っている。力も足りないはずがない。
しかし、切れない。
 自分はかれに、かれにこそ介錯を、と望んだ。手にした短刀が高潔な死を自分にもたらしてくれるものと信じて疑わなかった。家臣の前で焦るでもなく、彼は絶望で目の前が真っ暗になるのを感じた。 それはこうやって追いつめられ自刃せねばならぬということを悟った瞬間さえ訪れなかったひたひたとした泥濘であった。いやむしろ自分はずっとこの瞬間を心待ちにしていたのだ。
 かれに触れこうやって腹を裂いてもらうことを切望していたのだ。
 だのに、だのになぜ。

  なぜだ!愛しているのに!
  あんなにも愛したのに!!

 彼はとうとう憤怒の爆発に任せて短刀を放った。
 項垂れて絶望に沈んでいた彼が音を聞き逃したわけではあるまい。音もたてず短刀は薬研を透った。
 狙いをつけてさえいなかったそれが勢いもなく、当たり前のように薬研に呑みこまれているのを彼はさらに深い絶望をもって見た。
 短刀の拒否を悟った。それは彼の今までの生涯を、愛情をすべて唾棄する証左だった。家臣たちがひたすらに感嘆の声をあげているのさえもはや彼の耳に入らなかった。

――主君、この短刀は まこと忠義深い。
――主の腹を裂かぬのは主君への忠義ゆえこそ。
――まさに短刀の鑑。どうか臣の脇差をお使いくださいませ。

 彼は半ば気をやったまま腹を裂いた。そもそも彼に腹を裂きたくないなどという恐怖などなかった。苦悶ではなく彼は顔をゆがませて血に沈んだ。

  (なにが忠義深いだ)
  (この短刀は不忠の短刀だ)
  (人を眩惑させる化生のかたなだ)

 視界の隅であやしくうつくしく笑ったのは、一体誰だっただろうか。
 彼にはわからない。その前に彼の意識は首とともに落ちた。


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